むしろ、わきまえたい/『くたばれ、正論』に一言/名演揃いの1本

まんざらでもない日記

2021年2月5日

「女性がたくさん入っている理事会の会議は時間がかかる」という東京オリパラ組織委員長、森喜朗氏の発言が問題となっている。

83歳。歳だからー、というのはそういう発言をしない同年代に対して失礼だが、どうしても一昔前の「男社会」の感覚が抜けきらないのだろうと思わされる。

一連の発言の締めも酷かった。「組織委員会の女性はみんなわきまえておられる」と。女性委員に対し敬意を払ったつもりかもしれないが、この文脈での「わきまえる」は許可や指示の意味を含み持っていて、女性を見下していることの表れだと本人は気づいていないのだろう。

案の定「わきまえる」はネットでクローズアップされた。Twitterでは「#わきまえない女」で森氏の発言に抗議する投稿が相次いだ。「異を唱えない」「意見を言わない」ことが「わきまえた」行動として求められるのであれば、私たち女性は「わきまえない」という意志だ。

この思いはまったく同感。けれども、こうした逆説的で皮肉めいた「わきまえない女」というハッシュタグには違和感がある。「わきまえる」という言葉が、さも悪いことのように捉えられてしまう、というか、すでにそうなっていることにも驚いた。

女性蔑視発言に抗議するのは「わきまえない」のではなく、むしろ道理にかなった「わきまえた」行動なのではないかと思う。Twitter上の言葉にいちいちモヤモヤするのもなんだけれど、ウケ狙いや釣り、煽り言葉にもまれながら言葉の意味が変わっていくことは仕方のないことなのだろうか。

かくいう私も自分がネットに発する言葉や文章が乱れてきたと実感している。ネット受けする文章、ネット向きの文章はあると思うけれど、ここのところ、そうした文章を書くのも読むのもしんどくなってきた。

歳なのかな……。道理を、少なくとも年齢を「わきまえた」文章を書きたいんだろうな、私。


少し前の広告コピーに『くたばれ、正論』というのがあった。世間の声など気にせず、好きに行動しようというメッセージである。「正論」をさんざん振りかざされた立場からの抵抗なのかもしれない。

けれども「正論」が自由な行動を阻んでいたわけではない。窮屈な思いをさせているのは、「正論」を振りかざす人や体制ではないか。そもそも「正論」は振りかざすものでもない(から「正論をふりかざすな」というわけで)。

広告コピーというインパクト勝負とはいえ、あたかも「正論」が自由の対極にあるかのように見せるのは酷いし狡い。

たしかに世間の意見を気にしてもしょうがない。そこに縛られて自分の思うように行動できないのは不幸だと思う。けれども世間の意見もさまざまなら、自分の考えだってコロコロ変わる。それが人間じゃないかと。

善悪や正否の区別さえ曖昧な混沌とした世界を生きている。わかりやすく二元論で語るような人も表面的にそう見せているだけ、あるいは本人が複雑な心理に気づいていないだけで、人間はもっと厄介で面白い。

映画や文学はそれを教えてくれる。


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映画『ダウト あるカトリック学校で』(2008年)を見た。
1960年代のニューヨークのカトリック学校を舞台に、厳格な校長(シスター)が抱く「疑惑」を描く。校長はある神父が特定の生徒に対し特別な感情を持っているのではないか、不適切な関係を強要しているのではないかと思い、神父を追いつめていく。

映画『スポットライト 世紀のスクープ』にも描かれているカトリック司祭による性的虐待の話だと思って見ていたらー。(ネタバレ禁です)

真相を求めようとする心に「信じるとは」「疑うとは」を問う。人間がいかに複雑な存在であるかをメリル・ストリープとフィリップ・シーモア・ホフマンが緊張感たっぷりに見せてくれる。エイミー・アダムス演じる2人の間に挟まれる若いシスターの純粋さは果たして救いとなるのだろうか。そして母親役にヴィオラ・デイヴィス。この母親の1シーンがこの映画の真意を表しているともいえる。名演揃いの1本だった。

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