わかりやすいに侵される世界/古典の楽しみ方/言ったからにはやらねば

まんざらでもない日記

2021年6月4日


こちらの記事『映画やドラマを観て「わかんなかった」という感想が増えた理由』がなかなか興味深い。

記事は、今の映画やドラマ作りでは「わかりにくい」と思われることを極力避ける傾向にあり、それが説明セリフやテロップの多用につながっていると解説。そこには「わかりにくい=つまらない、おもしろくない」という構図があり、昔よりも観客が幼稚化した、あるいは幼稚な感想までもが簡単に発信できる環境があるからか、と論を濁す。そして、わかりやすさに慣らされたリテラシーの低い層でも楽しめ、なおかつ作り手の野心も満たされるような作品作りが求められるのでは、と課題を提示している。

たしかに映画サイトのレビューを見てみると「よくわからない、つまらなかった」というだけの感想がある。私自身もそう思うことがないわけでもないので「わかりにくい=おもしろくない」を否定する気はない。けれども、作り手が「わかりにくい=おもしろくない」を恐れてわかりやすさに傾倒していく姿勢は、それこそ「つまらない」と思う。

ブログ界隈では随分前から「わかりやすい」が神のようにもてはやされている。
わかりやすいことがそんなにいいのか、そんなにありがたいのか、ありがたがっていいのか、という思いから読んだ『わかりやすさの罪』(武田砂鉄著・朝日新聞出版)には、わかりやすさの弊害も記されていた。

で、ちょうど今見ているNHKの『100分de名著』 今月はレイ・ブラッドベリの『華氏451度』
本を読むことも所有することも許されない未来を描いた1953年発刊のディストピア小説で、まるで「わかりやすい」に侵された世界のよう。

ある登場人物曰く、「人々には考える必要のない情報だけを与え、哲学や社会学といった物事を関連づけて考えるような、つかみどころのないものを与えてはいけない。そんなもの齧ったら憂鬱になるだけだ」(筆者要約)と。迷わない、悩まないほうが幸せ。迷いや悩みを生み出しかねない「本」は燃やしてしまおう、という世界だ。

今は本もデジタルの時代。物理的に燃やされることはないにしても、「わかりやすさ」を求める人向けに情報がパーソナライズされる環境や、作り手が「わかりやすさ」におもねいてしまう状況は「焚書」と同じではないかと思う。

わたしは「わかりにくくてもおもしろい」「わかりにくいからおもしろい」にしがみついていたい。


とはいえ、悔しいかな、おもしろくないものは、おもしろくない。
先日読んだシェイクスピアの戯曲『リチャード3世』 正直おもしろいかっていうと、そうでもなかった。

リチャード3世がどういう人だったかというのはザックリと知っていた(参考:イギリス王室史関連映画 の大一覧!【保存版】)し、戯曲なのでわかりにくさはない。が、新鮮さもない。

後の世に下敷きにした作品が多く作られれば作られるほど、ストーリも登場人物も類型化したものになっていく。長く読み続けられる作品の宿命であろう。

原点としての偉大さは認めても、書かれた当時の読み手のように新鮮な気持ちで読むことはなかなか難しい。現代の読み手として後の世の変遷込みで読むしかなく、むしろそれを楽しむものじゃないかと思ったりもした。

おそらくシェイクスピアが想像もしなかった読み方を私たちはしているのだと思う。おもしろいは奥が深い。



映画レビューを書く予定リストがいよいよ大変なことになってきた。50本以上が待機状態で、なかには「アレ? どんな映画だったっけ? 」というものも。

「月に○本レビューを書く!」というような目標や予定を立てず、気合も入れないー、これがブログを続ける秘訣ではあるけれど、このマイペースさが招いた現状は何とかせねばならぬ。

というわけで、今待機中の50本以上の映画レビューをとにかく書く。書きます。できれば今月中に。
公開は現在と同じ1~2本/週で、映画レビュー以外の記事も書く予定なので、外面的には何も変わることはないけれど、とにかく近年まれに見る頑張りを「誰に」というわけでもなく、私自身に見せることにした。

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