2021年4月6日
『村に火をつけ、白痴になれ』伊藤野枝伝(栗原康・岩波現代文庫)を読んだ。これがなかなか刺激的な本でー。
明治28年福岡の今宿に生まれ、女性解放運動家となった伊藤野枝。平塚らいてうが創刊した婦人誌『青鞜』をらいてうから引き継いで編集を務め(放置→廃刊となる) 、同じアナキストの大杉栄と行動を共にし、28歳で憲兵によって惨殺された生涯。その生き様はひとことで言えばわがまま。結婚制度や国家に異を唱え、堂々と不倫を行い、奔放に生きた人だった。
当時は今以上に女性に不利な法律や制度があった社会。その社会の中でやりたい放題だった野枝の生涯を、筆者、栗原康(政治学者、アナキズム研究家)氏が熱く自由に書き綴っている。その筆致にはまるで野枝の意志が宿っているかのよう。社会の閉塞感をぶち壊そうとする野枝のエネルギーにただただ圧倒される。
とはいえ、アナキズムにはまったく共感できないし、わがままで無神経で他人を顧みない生き方がいいとも思えない。この本を読みながら、なぜか『サピエンス全史』(ユヴァル・ノア・ハラリ著)を思い起こした。言語を獲得し、農耕をはじめ、社会を作ってきた人間が、社会や制度に縛られずに生きることができるのだろうか、はたしてそれを幸せと思えるのだろうかとモヤモヤ。

こうやって本を読んで人の生き様や過去の出来事を知るのは楽しい。自分の平穏な人生では出会いそうにない人や、体験できそうにないことを本を読んで知るー、いいじゃないですか、ショーペンハウアーさん。
ちょっと前にTwitterのTLで目にしたショーペンハウアーの『読書について』を覚悟して読んだ(おすすめに従って光文社古典新訳文庫で読む)。なるほど、これも刺激が強い。
「読書するとは、自分でものを考えず、代わりに他人に考えてもらうことだ」をはじめ、読む人も書く人もメッタ斬りにするショーペンハウアーのきっつい言葉が満載。
物書きには三通りあるといえる。一番目は考えずに書くタイプ。記憶や思い出、あるいは他人の本をそのまま借用して書く。このタイプはたいへん数が多い。二番目は書きながら考えるタイプ。書くために考える。このタイプもよくいる。三番目は、書く前からすでに考えていたタイプ。考え抜いたからこそ書く。このタイプはめったにいない。
『読書について』より
私は書きながら考える二番目のタイプ。が、このタイプは、書くまで考えない、運を天にまかせて狩りに出る狩人のようなもので、多くの獲物をたずさえて帰路につくのはむずかしい、とな。
たしかに。本日も狩りの途中で道に迷っております。
刺激のある話をもうひとつ。朝日新聞「耕論」で、「この春 君に送る言葉」と題し、若者向けのメッセージが掲載されている。その伝え手一人が作家の西村賢太氏。
西村氏は「コロナ禍で若者がかわいそう」と言われる風潮を「過保護」と言及し、自身の家族崩壊、中卒、極貧生活を語る。そして「それを不幸だと思ったことはない」という。自分を不幸だと思うのは比べるからだ、と。
「朝日新聞 耕論」より引用
上をみたらキリがないもんね。ひどい目に遭い続けて、心が死んでいって、諦めて、「それでも生きていかないと」となったら、逆に自分を不幸だとすら感じなくなるのかもしれない。
また「かわいそう」というのは大人の勝手な見方ではないかとチクリ。そしてこう締めくくる。
同
でも僕は、自分自身には責任を持って生きてきました。それで十分でしょう。
自分の苦労話をした上で、「だからガンバレ」なんてことは言わない。自分自身に責任を持って生きる、それで十分でしょう、ってめちゃくちゃカッコイイ。「春に若者に送る」にしてはけっこうシビアだけれど、こんなメッセージがあってもいいと思う。
追記)
西村賢太さんは2022年2月5日に急逝されました。54歳。ご冥福をお祈りします。