脱!「厳しくしたほうがいい幻想」/自己批判なんていらない/間違いなくスプリングタイプ

まんざらでもない日記

2022年4月18日

このところ話題となっている映画界のハラスメント問題。これまで美談として語られてきた監督のスパルタ指導に鉄槌が下されようとしている。

先日のTV番組「ワイドナショー」でもこの問題を取り上げていたが、コメンテーターとして出演していた女優の寺島しのぶさんの発言にはがっかりした。

告発の動きを支持しつつも、”自分は家柄の関係もあってか、守ってくれる人がいてそうした思いはしなかった。蜷川監督(厳しい演出で知られた故・蜷川幸雄氏)に「バカ、ブス」と罵られても、それは期待の声に聞こえて嬉しかった。自分はありがたく思えたけれど、そんな人ばかりじゃないですから(筆者要約)”と発言した。

こうやって「人の受け止め方」の問題にしていては、いつまでたっても変わらない。厳しい指導が良い演技を生み出すという考えが暴力や暴言の肯定につながる以上、たとえそれをありがたがる寺島さんのような奇特な人がいようとも容認されるものではない。

さらにがっかりしたのは、これに続く松本人志さんの一言。「もしかすると一時的に質は下がるかもしれないけれど、そこを超えていかなければー」 この発言は「厳しい指導が良い演技を生み出す」という価値観そのもの。

あえて質に言及するのなら「もしかすると厳しくしないほうがもっといい演技ができたかもしれない」という考えはないのだろうか。どの業界も「厳しくしたほうがいい幻想」からちゃんと脱しないといけないと思う。

監督や演出家といった直接指導する立場の人だけでなく、精神的に追い込まれた末の演技を「役者として一皮むけた」とか、女優が脱ぐことを「体当たりの演技」「女優開眼」というよなメディアのクソつまらない紋切り型の称賛も、こうしたハラスメントが蔓延る土壌を作ってきたのではないかと思う。


ノンフィクション『重要証人 ウイグルの強制収容所を逃れて』を読む。

牧歌的で信仰を重んじるウイグル人の文化や暮らし、著者の家族や恋愛話から一転、中盤から中国による侵略の実態が描かれていく。

侵略は土地に対してだけでなく、民族に対して行われる。むしろ、”対民族”が本丸なのだろう。
信仰や習慣、言語を中国式に改めさせる「再教育」。 その入り口である大勢の前での自己批判は、1972年の「あさま山荘事件」につながる「山岳ベース事件」を思い出す。

徹底的に自己を蔑ませ無力化していく。そこに中国共産党が”救い”となることを刷り込む、いわば洗脳である。

今のロシアによるウクライナ侵攻も民族問題の側面をとらえれば、ロシアが徹底的に仕掛けてくる意図が見えてくる。相手を無力化し、救いの手を差し伸べる。もちろんそれは救いでも何でもない。追い詰められた人間がどこまで自分の尊厳を保っていられるかは想像も及ばない。

前段の映画監督の話も同じ。追い込んで無力化し救いの手を差し伸べる。ホントに卑劣。
自己批判なんてするもんじゃないな。そりゃ後悔したり反省したりの日々だけど、「まいっか」で済ませられる余力、大事。


もうひとつは明るい話題を。明るいといっても気分でなはく「服」の話。

昔々20代の頃にパーソナルカラー診断というのを受けた。まだ”イエベ”とか”ブルベという言葉が登場する前の話で、このときの診断は「スプリングタイプ」だった。”明るめのイエベ”というところでしょう。

ところが当時の私はスプリングタイプに似合うとされる明るいキレイな色の服がイヤで、コムデギャルソンに代表されるようなモード系の黒ばかり着ていた。

それが、ある頃からだんだん黒が難しくなってきた。ボトムスはまだしも、シャツなど顔の近いところに黒があると明らかに顔が死ぬ。

このパーソナルカラー診断は歳をとっても大きく変わることはないというけれど、日焼けや加齢によって変わることもあるという。顔色の変化は自覚はないけれど、髪は白髪が増えてきたのでかなり明るく染めている。

そんな昨今、若い頃よりも”似合う似合わない”がハッキリしてきたように思う。黒だけでなくピュアな白も難しくなってきた。で、似合うのはオレンジやコーラルピンクなのだ。オカンの形見のサンゴのネックレスとイヤリングがめちゃくちゃ似合うようになっていたのだ。オバサンみたいでいやだけど、もう立派なオバサンなのだから。

というわけで、スプリングタイプです。間違いなくスプリングタイプの私は、これからは明るい色の服を着たいと思います。以上です。

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