差別的表現を排除!? 映画をどう見るか/なぜ「等」を使ってしまうのか/積読VS今読むべき本

まんざらでもない日記

2020年6月18日

アメリカから全世界に広がる人種差別問題。
1939年の映画『風と共に去りぬ』が人種差別を美化している-、という見方から米大手配信サービスHBOマックスが動画配信を停止したことが話題となっている。

発端は、『風と共に去りぬ』は、黒人奴隷制度のある社会を美化しており、黒人に対するステレオタイプな見方をしているー、と脚本家ジョン・リドリー氏が指摘したこと。

「あの不朽の名作が葬り去られる!」と、センセーショナルに広がっているのだけれど、記事は、配信停止は一時的なもので、今後は歴史的解説や注意書きを加えたうえでー、と伝えている。

「差別はいかん、だから差別的表現がある映画はいかん」といった短絡的な話でないことはたしか。負の歴史を描いた映画を「どう伝える」かが問題になっているのだろう。

どの国においても歴史解釈というのは非常に複雑な問題で、映画はその一面しか描いていないものも多い。「どう伝える」は、立場を変えれば「どう見るか」の問題でもある。
人種差別を描いた映画はたしかに不快で、イヤな思いがするけれども、そう思うことを含めての映画鑑賞。

今のアメリカに『風と共に去りぬ』を見て「あの時代は良かったな、古き良きアメリカだな」と思う人がいてもおかしくはないし、そう思うしかないほど今の社会が閉鎖的なんだとも思う。

日本はどうなんだろう。日本人の自分はどうなんだろう。右傾化した戦争映画に、ちゃんと嫌悪感を抱けているだろうか。

 

―――――――――

 

朝日新聞に掲載(6月17日)されているコラム「『等』の正体」。
官僚や政治家の答弁に多用される「等(とう/など)」という言葉がなぜ存在するのかを興味深く読んだ。

本来はちゃんと「これ、これ」と特定するものの省略的表現として使われていた「等」が、このごろは断定を避けるための表現として使われることが多いという。
「等」としておけば、何となくそれ辺りの意味が共通理解される、いちいち明記しなくても「等」に含まれるか含まれないかはわかるよね、という日本らしい言葉。
政治家でもないのに、たしかに「安全策」として使ってしまうことがある、と反省。

「等」をつけざるを得ないときには、「等」の直前の言葉に最も代表的、象徴的な言葉を選ぶべきという、これは参考にしたい。

 

―――――――――

 

積読が一向に解消しない問題。
このごろは図書館で借りることが増え、借りた本は期限内に読んでしまうのだけれど、その一方で買った本は「いつでも読めるし」と積読になってしまう。

が、本というのは不思議なもので「読むべきときに読まれる」しくみになっている。
本棚に並ぶ背表紙のタイトルが「さあ!今はコレですよ」とまぶしい光を放つー、ことはないのだけれど、ふと、なんとなく手に取った本ー、それが今読むべき本なのだと。

そういうことにしておこう。

タイトルとURLをコピーしました