先日ちょっとした話題となっていた「読書感想文は必要か」問題。
発端は国語の教員によるツイート(すでにアカウントごと削除)で、そのかた曰く、「本来、読書は好きですること。本を読むことや感想を書くことを強制されては、本嫌い、作文嫌いを助長してしまうのでは」と。これに対する反応が多種多様でおもしろく、読んでいるうちにすっかり乗り遅れてしまった。
私は学生時代は読書も作文もそれほど好きでもなく、読書感想文はやっつけで書いた記憶しかない。
けれどもどうしたことか、年をとるにつれ本を読むのが好きになり、誰に頼まれたわけでもないのにせっせと「本の感想」などをブログに書いて世の中に放出しているのだから人間とはわからないものだ。
学校の読書感想文の是非なんて、どっちでもいいじゃん、と無責任に思っていたところ、ある話を思い出した。
文学国語と実用国語
今の国語教育の「文学」寄りを改めて、もっと「実用」「論理」寄りにしようという流れがある。
社会で出て必要になるのは情報を正しく読み取る力や伝達する力。たとえば「説明書や手順書を正しく読みとる」とか、「報告書や謝罪文書をさっさと書く」といったこと。そこに作者が込めた思いをどう読み取るかとか、自分がどう感銘をうけたか、どんな思いがわきおこったか、なんて文学的解釈は必要ない。実際、高校の国語教育から「文学」はかなり減らされているという。
この話を聞いたときには「文学がいらんとは、なにごとかっ」と、自分でもよくわからない立場で怒りを覚えたけれども、たしかに文学はもっと大人になってからでもいい。いろいろあった大人だからわかることもあるし、人間の業とか欲とか不合理で不道徳な姿とか、文学には教育上よろしくないものもたくさんある。
作者が人さまには言えない思いを作品に込めたのであれば、それを読んだ感想も人さまには言い難いだろうし、ましてや先生や同級生に発表なんてできるもんじゃない。文学とはそういうものなのだ。
で、今回の「読書感想文は必要?」も、おそらくこの流れから出てきたでのはないか。実用国語を教えるのに読書感想文はミスマッチじゃない?と勝手に解釈させてもらった(読み力大丈夫か……)。
「読書感想文」は何を書けばいいのだろう
『教養の書』(←これホントに面白い)で著者・戸田山和久氏は、
まともな大人は実生活の中で「自分の思いを書く」というようなことはほとんどしない。<中略>大人は特定の人に向かって特定の目的を果たすために文章を書く。
『教養の書』より
とし、学校ではそれとは矛盾した教えをするー、といったことを自身の読書感想文のエピソードで紹介している。
「自分の思いを素直に自由に書きなさい」といいつつ、採点は先生の気分次第。戸田山少年はそんな読書感想文の宿題がキライで、あるとき架空の本『坂上田村麻呂事件』をでっち上げ、その感想文を書いた、が、結局、友だちにバラされて先生にこっぴどく叱られたという。
架空の本をでっちあげるなんて、面白いものを書く人は子どもの頃からやっぱり違う。これぞ「自分の思いを素直に自由に書く」の究極形でしょう。
件のツイートには「先生の期待するものを書く、書かなければならない」「自分の思いを素直に自由に書いたら訂正されてしまった」といった反応がたくさんあった。また、文学やノンフィクション作品を課題図書にしておいて「あらすじを書いてはいけない」なんて指導もある。先生、そりゃ無理でしょ。
学校が読書感想文を書かせるような本といえば、私が危惧(というより期待)するようなダークなものではなく、だいたいが感動か感銘か共感かするもの、すりゃいいんでしょう的な道徳臭がキツイもの(雑でスイマセン)。
そんな忖度をしながら文章を書くなんてー、そりゃ、本嫌いに、作文嫌いになりますよって。
で、読書感想文は必要?
読書感想文必要派のご意見「読書感想文を書くことは、自分の意見や考えをまとめる力につながる、必要!」はごもっとも。
けれども、これにこそ必要なのは、実用文章、論理的文章の書き方、まとめ方の教育じゃないかと。自己啓発本とかビジネス本を課題図書にして、アウトプットォ!といった「読書感想文」だったら実現可能かもしれない。
あ、うっすらと自己啓発系をディスっている気がするけれど、「気のせい」ということにしておこう。
◆ホントにおすすめの1冊