『希望難民ご一行様』は、メディアでおなじみの古市憲寿氏による「コミュニティ論」
古市氏の修士論文(2009年)を原型をとどめないくらいに(本文より)加筆・修正を加えたもので、舞台は世界一周のクルーズ船「ピースボート」、研究の対象は「若者」です。
自身もピースボートに乗り込み、若者がどのような動機でピースボートに乗船しているのか、船内の活動は、ピースボートに乗船したことで何かが変わったのか、を調査し、まとめたものです。
が、そこはあの古市氏。
この本が世に出たのは2010年ですが、今現在(2019年)のイメージと一貫した一見「身も蓋もない」切り口です。もちろんホントに「身も蓋もない」わけではなく、モヤモヤとしたこの社会に対するさまざまな疑問への、ひとつの解釈が得られる本ではないかと。
で、本書のはじめに古市氏自身による「注意!」がしっかりと書かれていますので引用します。
製造物責任として初めに書いておく。本書は、読む人にとっては不快な本である。「旅」や「世界一周」「希望」「若者」「世界平和」「夢」「コミュニティ」と一見希望にあふれたようなものについて書かれたものであるにも関わらず、不快な本である。
『希望難民ご一行様』より
それはこの本が「こんなに素晴らしいピースボート」とか「世界一周しているのか自分を変える旅に出よう!」とか、「夢はあきらめなければ叶う」とか、「やればできる」とか、そいう心地の良いことを一切主張しないからである。
それどころか、「若者の夢をあきらめさせろ」「ピースボートの世界一周クルーズは、若者をあきらめさせるための航海である」「コミュニティは希望の冷却装置である」など本書の発見と主張は、どこまでもネガティブだ。
夢のない時代、せめて本くらいは夢のあることを語れよと思うかも知れない。辛い毎日、せめて本くらいは人を励ませよと思うかもしれない。だけど、まやかしの希望や励ましは結局のところ、何の役にも立たない。だったらせめて、どこまでも悲観的に述べて、どこまでも批判的に否定して、それでもなお残るものを、僕は信じてみたいと思う。
この注意書きをふまえて見ていきましょう。
現代的不幸の解消のためのピースボート

本書は「コミュニティは若者を救うのか?」という疑問に対し、「そうとは言えない」、むしろ「夢や希望をあきらめさせる機能を持つ」と言います。さらに「若者(の夢)をあきらめさせろ」とまで言う。その結論に至るの「ピースボート」の調査研究が実に面白いんですよ。
「ピースボート」とは?
「ピースボート」をご存じない方にザックリ説明しますと、
「世界一周クルーズの旅」として、居酒屋のトイレなどにポスターが貼ってあるのを見たことがありませんか? アレです。旅には興味がなくとも居酒屋に興味がある私の目にもとまるアレです。
もともとは1983年に、当時早稲田大学の学生であった辻元清美(現衆議院議員/立憲民主党)氏が、アジア諸国との交流のために設立した団体活動で、その後、政治色を薄め、世界平和や国際交流を謳いながら活動を続け、今も年数回就航しています。
ほかの「世界一周船の旅」に比べ費用が安いこと(ポスターには99万円と)が人気で、ピースボートの運営に関する「ボランティア」をすることで、さらに安い費用で乗船できるという魅力があります。
本書では、このボランティアを含めた「ピースボート」の旅の仕組みもキッチリ紹介(?)しています。
「ピースボート」に乗船する若者とは?
で、本題の調査についてです。
古市氏はピースポートに乗船する若者を、
【目的性】-「ピースボート」の理念(世界平和)に共鳴しているか、と、
【共同性】-「ピースボート」の雰囲気(船内はイベントなど)に馴染めているか、
の二つの軸によって 、4つのタイプに分類しています。
①セカイ型:目的性(+)共同性(+)
典型的なのは9条ダンスを踊る若者。
*9条ダンスとは憲法9条の主張をヒップホップのリズムに乗せたダンスです。
「自分の変化が隣の人に伝わり、それが10人へ広がり、それが世界に広がる。日本、世界を変えたい」
②文化祭型:目的性(-)共同性(+)
世界平和などへの関心は薄いが船内イベントには積極的に参加する。
「なんだかよく分からないけど毎日楽しい」
③自分探し型:目的性(+)共同性(-)
ピースボートの理念には共鳴するが、ノリに違和感がある。クルーズ後半には理念への関心もなくしていく。
「私は早く現実と向き合いたい。もういいかなみたいな」
④観光型:目的性(-)共同性(-)
ピースボートの価値観や雰囲気に染まらない。 旅行好き。
「こんな中学生ノリとは思わなかった。あだ名とかタメ口とかムリですね。船内活動にもまったく興味ないし。自分で観光地に行けば良かったかな」
ピースボートの乗客には若者だけじゃなくて中高年もいるわけですが、トラブルが発生すると中高年と若者は対立します。そのときの対処の仕方にもタイプごとの特徴があることなどを調査したんですね、古市氏は。
旅の終盤、多くの若者は、ピースボートが決して人生を変えるような劇的な体験ではなかったと振り返ります。世界の各地で体験したことよりも、船内の人間関係や自己内省による「気づき」がクルーズに参加した成果なり変化として残るのだとー。
調査はピースボートを降りたその後も行われています。
「セカイ型」と「文化祭型」はその後もルームシェアをしたり、団体旅行をしたり「つながり」を継続させていきます。が、そこには世界平和も憲法9条もありません。だからといってこうした若者たちの「世界平和」が、はじめからポーズだったわけではなく、「共同性」を維持させるために必要な要素だった、と考えられています。
一方「観光型」は日常に戻っています。
「ピースボートで変わったことは何もなかった。(ピースボート)にはもう絶対に乗らないと思う。みんな無駄に熱い。気持ちがね。ひいてた。夢が経営者になりたいとか、海辺でバーを開きたいとか、何を熱く語ってるのみたいな。だけどそういう人ほど結局ニートしとるけん、早く行動しろよって(思う)」
『希望難民ご一行様』より
若者の感想も辛辣です。
「自分探し型」は、終わらない自分探しを続けていました。
「日本にいたら何も変わらないから、海外に行っちゃおうと思って。世界を見たい、というよりも何かを見つけたいっているのが近い。日本以外の国の生活感を感じたい。何をやるにしても英語をできるのは強いからね。就労ビザに切り替えてもう何年かいたい」
『希望難民ご一行様』より
評)社会はあきらめの装置なのか?
「生きづらさ」という「現代的不幸」がピースボートで解消されるわけではなく、むしろピースボートに乗ることで「世界平和」の熱が冷めるー、ピースボートは「あきらめの機能」を持つというんですね。
こうした古市氏らしい皮肉的な見方に加えて、ピースボートが残したのは「目的性」のない「共同性」だけのコミュニティで、それはまさに「ムラ」であると指摘します。
希望難民たちは「現代的不幸」に対してムラムラして(衝動や感情が抑えきれないこと)ピースボートに乗り込み、目的性を冷却させた結果、「村々する若者たち」になったのである
『希望難民ご一行様』より
当時ピースボートに乗り込んだ若者と同年代の古市氏ですが、特別冷めた目で若者や社会を見ているわけではありません。本書でも初段で解説していますが、「旅」に出る若者はいつの時代もいたわけで、「旅」で夢が冷却されても「戻る社会」があったのです。
が、今はそれがない。
「夢は叶う」「やればできる」を現実として見せてあげることができない社会になっていることを指摘しています。古市氏よりも上の世代は「頑張ればなんとかなった世代」で、今もそうと信じている人もいます。が、その人たちがハシゴを外した社会で若者が生きていくためには「あきらめろ」「若者にあきらめさせろ」と言っているのでしょう。
目的もなくユルく「群れてる」だけにしか見えないコミュニティにも「あきらめの装置」としての意味があるという点にはなるほど、と思いました。
この本が書かれてから10年ー。
ピースボートや特定のコミュニティだけじゃなくて、職場やもはや社会全体が「あきらめの装置化」しているようで、でもそうとあきらめてしまったらそれこそ身も蓋もない話です。
社会やコミュニティあり方には、この本で分析に使用された【目的性】や【共同性】以外の軸も存在するのでしょうから、あきらめなくてもいいのかな、と。少なくとも、あきらめるために99万円は使いたくないな、と。
以上です。
◆本田由紀氏による「解説、というか反論」も必読です。