ウォーキング(という名の散歩)の途中でradikoから流れる音楽にニヤついてしまった。
というもの、先日読んだジェーン・スー氏(@janesu112)のエッセイ『女の甲冑、着たり脱いだり毎日が戦なり。』にある、ヒーリングミュージックの話(「ホラー・オブ・ヒーリングミュージック」)を思い出したからだ。
ジェーンさんは商業的スピリチュアルが大の苦手らしく、「強力なα波だか超音波だかが入っている」というヒーリングミュージックが脳の機能を高めるとか、集中力をアップするとかいう効果もあやしいものと思っていたそう。
しかし試しにヒーリングミュージックをかけながら仕事をしてみると、めちゃくちゃ集中力が増してかつてないほどに作業がはかどったのだと。で、その作業を続けていると、さらなる予想外の出来事がー。
私もスピ系はまったく信用していないのでフムフムと読み進めていたが、この話にあるヒーリングミュージックの効果には驚いた。というか、爆笑してしまった。
こんなふうに、「ココに書かれている毎日は、自分のことではないか」が満載のエッセイです。
都会で働く大人の女になるために装着しなければならない「甲冑」
「都会で働く大人の女」として世間の目や自己の欲望と戦いながら、着たり脱いだりするものは洋服やファッションアイテムだけではありません。
仕事や趣味、恋愛などにおいて「女の人ってこういうの好きでしょ?」「女の人ってこうよね」という既成概念に、ときに抗い、ときに翻弄される事態はまさに戦(いくさ)。その戦のために身につけるものを「甲冑」と言い表すところがオモシロイ。
戦を優位に進めるための「甲冑」もあれば、あえて捨てる「甲冑」もあり、戦の中で失う「甲冑」もある。取捨するのは「もの」だけでなく、時間や情報、価値観かもしれません。
何を歌うかで年代が確実にバレてしまうカラオケで、イマドキの歌として『恋するフォーチュンクッキー』を歌ったが、若者の人気はボーカロイドの初音ミクだった(本書「そのクッキーは君に幸運を告げるのだろうか」)とか、
誘われてヨガをやってみたが、スピ系との親和性にモヤモヤして心酔できなかった(同「ヨガってみたはいいけれど」)とか、
オーガニックレストランとか、ディズニーランドとかー。
本書にあるエピソードのように他人にとっては「なんでそんなことで戦ってんの?」と思うようなことが悩ましいのですよ、「大人の女」というものは。
子どもの頃、いや20歳を過ぎた大人になった当時でさえ、40代、50代になるとこんなことで悩んだりしないと思っていた。それが「大人の女」だと思っていた。
第一線を退いても「甲冑」は不要にはならない
無駄な甲冑は処分すべきだけど、どれを捨てるべきか、どれを残すべきか。年齢的には大人になった今も私は「甲冑の試着」をくりかえす日々を送っています。
外で仕事をしていた頃と比べると着飾ることもバッチリメイクをすることも少なくなったし、「規範」とか「責任」とか「課題」とか、ややこしいことを言われることもなくなったので論理武装する必要もなくなった。これらはすべて要らなくなった甲冑で、いつの間にか自分のそばには見当たらなくなっていました。
が、「映画好き」と自負するからには、苦手なマーベルとかディズニーとか邦画とかアニメも見ておくべきだろうか、とか、一応専業主婦だから料理の写真をSNSに投稿したり「ほっこりした幸せそうな雰囲気」を醸し出したほうがいいのだろうか、とか、あらたな甲冑を試着しては「これじゃねーっ!」を繰り返しているのです。
もういっそ甲冑なんて脱ぎ捨てて「素」でいけばいいと思うけど、「なまけもので皮肉屋で恥かしがり屋」という「素の自分」のまま社会とつながるのは、やっぱりこころもとないのです。
かといってかつてのように甲冑でガチガチに固めてしまうと、柔軟性を失いつつある思考と足腰では身動きがとれなくなりそう。
まだまだ「甲冑を着たり脱いだり」しながら生きていくみなさんにもおすすめの1冊です。