『モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ』宮崎智之 現実に根ざした日常を生きている

本と読書

私は自分の「モヤモヤ耐性」はかなり高いと思っていました。

宮崎智之氏の著書『モヤモヤするあの人 常識と非常識のあいだ』で紹介されているいくつかのモヤモヤを例にとると、

夜間や休みの日に職場から電話がかかってくることには「立場上しかたがない」と思っていたし、「タバコ休憩」に対しては禁煙ファシストのごとく断罪してきました。

おそらく嫌いな上司からSNSで友達申請されたらガン無視するだろうし、焼き鳥を串から外す人がいたら「あ、私は串のままいただきます」と表情一つ変えずに言うと思います。

私は自分の常識で自分の行動を決めてきたー、と思っていました。

が、これってもともとの性格が頑固で偏屈だからではなく、そうやってモヤモヤに対処することで自分を守ってきたのでないかー。

つまり自意識過剰をこじらせた結果、こうなってしまったのではないか

私はこの本を読んでそう思ったのです。

 

世の中には新種のモヤモヤが次から次に現れます。

常識や「ふつう」の感覚では「ナシでしょ」とされてきたさまざまなことが、新しい常識となることもあり、それらへの対処を誤ると自らが「モヤモヤさせてしまう人」になりかねません。

 

突然のフラッシュモブに「ハイハイ、そういうのイイです」と真顔で言っていいんだろうかー。「夏休みはBBQでウェイウェイしようよ!」と誘われたり、「ハロウィンはティン・カーベルのコスプレはどう?」なんてことを言われたらー。

ま、幸いそういう予定はないので、平時に起こりうるモヤモヤへの対処法を考え、さらに自意識過剰をこじらせ、いや、成熟させておきたいと思います。

 

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モヤモヤする「新しい常識」にはどう対処すればいいのか

仕事上の連絡をめぐる「つながらない権利」は、「(連絡が)できる/できない」の前に「する/しない」の是非を考えるべきー、というこの本の見解は、たしかにそうです。

 

かつては「できなかったこと」が「できてしまう」世の中になり、ちょっとやそっとじゃ「できません」とは言えなくなっている。

「じゃあ、できるんだったらやってよ」「できるんでしょ?(だったらするよね)」という余計なプレッシャーにさらされてしまう。

けれども、私たちには「できるけどしない」という選択肢もあるのです。

 

そういえばまだ若かりし頃、鬼のような先輩に、「やるの!?やらないの!?できるかどうかを聞いてるんじゃないのよ!」と返事を迫られることがありましたが、あれは、できる/できないに関わらず「やります」という答えしかないものだったのです。

「できないけどやります!」という、最も恐ろしい決断。

もうこんな決断をしてはいけないし、させてはいけません。

 

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モヤモヤは「自意識の鏡」のようなもの

人は「モヤモヤさせる人たち」になぜモヤモヤしてしまうのでしょうか。

この本は、どちらかというと、いや、かなり「非リア充派」「おこもり派」からの意見ですが、否定や拒絶ではなく、共存、歩み寄りの立場をとっていることに、著者の繊細なやさしさが感じられます。

 

そもそも乱暴な粗忽ものは、モヤモヤなんてするのでしょうか?

ムカムカやイライラとは違う「モヤモヤ」。

 

私は電車の中で化粧をする女性に対し、「人前でみっともない」と思うし、「人の目が気にならないのかな」「メイク中の顔って結構ヘンですよ」なんてことを思う。

つまり、私自身が他人にどう見られているかをすごく気にしているのです。
電車に乗り合わせている知り合いでもない他人の目を。

赤ちゃんの泣き声を正直「うるせーなー」と思っても、絶対に口にも表情にも出しません。
母性のかけらもないオバサンと思われたくないからです。

電車で高齢者に席を譲るときは、「どうぞ」とも言わずに席を立ちその場を離れます。
「いや、結構ですよ」と断られて何とも言えない思いをしたくないから。

 

こんな風に、けっこうちっちゃいことを日々気にしながら生きています。

モヤモヤは自意識の鏡のようなもので、自意識をコントロールしながら「モヤモヤ」に対処しているのです。

 

あとがきのなかの、

「モヤモヤするということは、それだけ現実に根ざした日常を生きているということでもある」

という一文ににハッとしました。

まっとうに生きているからこそモヤモヤする。

 

『モヤモヤするあの人』にはそんな「カタルシス効果」がある1冊です。

さらに、巻末の「救急車に乗った僕はアゴが少し伸びていた」は傑作! 必読です。

 

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