妄想派 VS 確認派/記憶を頼りに探索すれど/絶対に忘れない愚書

まんざらでもない日記

2020年7月2日

「電車の中でスマホじゃなくて文庫本を読んでいる人を見かけたらー」と、twitterでフォローしている方のつぶやきを見て、「そうそう、めっちゃ気になるよね」と膝を打った(もちろん納得したの意味です)。

電車の中で本を読んでる人ってかなり少なくなったけど、たまに見かけると、そこだけが光がさしているかのように見える。というのは言い過ぎだけれど、ま、とにかく気になる。何の本を読んでいるか気になる。

 

そのつぶやきの主は、勝手な妄想を繰り広げるらしく、妄想の詳細な手法は明らかにはされていないが、おそらく、性別やおよその年代、風貌などから、巧みに妄想をめぐらし、車内のひとときを存分に楽しんでいるのだろう。

 

これに対し私は「確認派」、とにかく確かめたい派。

位置取りによっては開いた本が覗き込める。
ザっと見ただけでそれが小説なのか、実用書なのかはわかるし、出版社によってはタイトルが確認できる仕様になっている。

 

<参考>

ちなみにこれはレベッカ・ブラウンの短編集『体の贈り物』 しおり紐(出版用語ではスピンというそうな)があることから新潮文庫と判別できる。

 

以前これで、河野多恵子氏の『みいら採り猟奇譚』を読んでいる人を確認しワクワクした覚えがある。ちょうど自分も読んだばかりの本だったので、思わず「それ面白いですよね、なかなかアレで、アレがー」と話しかけたくなったが、ま、生来そんなことができる気質ではないので心のワクワクだけで終わったのだけれど。

 

そんなことを思い出しながら、そういえば、誰かが同じような嗜癖(?)を持ち、「本のカバーがかかっていても何の本か察しがつく」と書いていたような……と、思い出した。

こんなことを書いているとしたら、あの人しかいない。

 

本棚から三浦しをんのエッセイを引っ張り出し、片っ端から当該記述の確認作業をすることになった。

 

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「あれ、どっかに書いてあったな?」 と思って本を読み直すことは多々多々多々多々多々多々、ありすぎる毎日で、この日もそうなった。

10数冊あるエッセイの中から目的の箇所を探し出す作業。手掛かりとなるのは、この世で最もあてにならない「自分の記憶」だけ。初めて読んだのはいつ頃だったか、この話を誰かにしたような‥‥‥。

が、この日は奇跡的に1時間足らずで目的の記述箇所を発見できた。

『悶絶スパイラル』(注:手元にあるのは2008年太田出版の単行本)に、たしかにこう書かれていた。

いやぁ、びっくりした。文庫には書店カバーがかかっていたんだが、私は電車内で常に、そばにいるひとがなにを読んでるか、確認してしまう癖があるのだ。書店カバーなんかめげず、開かれたページを覗き見したのだ。ていうか、ページを開くまえから、角川文庫だということはわかってた。書店カバーを通してうっすらと透けて見える、カバー裏の「あらすじ」の文字配列や、本文ページの紙の質感から、「角川だな」というのは見当がついた。<引用>

 

 

このようにすぐに発見できるのは稀で、たいていはわからないままになってしまう。

で、探すために読んでいるはずが、いつしか楽しんで読みふけってしまうことになる。

書き物が進まない「数ある原因」のひとつがコレであることは間違いないのだけれど、記憶力は怪しくなる一方だからしょうがないな。

 

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今日は本の話ばかりになるけれど、どうしても文句を言いたい本がある!

思いっきり文句を言うために、本のタイトルも著者名も伏せておこう。

その本は著者が好きな海外の映画女優についてあーだこーだと綴ったもの。
こう見えても寛容な私(あくまでも個人の意見です)は、本や映画で「つまらん」と思っても腹を立てることはない。

 

が、この本の腹立たしさたるや、プンプン!
著者が自分の好みに照らして女優の身体や顔(おもに身体)をイイだの残念だの書いていて、その文章が軽薄極まりなくて、女優への愛なんて微塵も感じんわ!

私自身が書かれたわけでもないし、自分のご贔屓の女優にケチをつけられたわけでもない。

けれども、人の外見を話題にすることがこんなにも不快なものかと思い知らされたわよ。

この著者が、この本に、こんなことを書いていたって、絶対忘れないからね(自信なし)。

 

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