「嘘はいかん!」と分かっていても、誰しも一度は嘘をついたことがあるでしょう。
「そういえば、確か10時集合と言われていたような……」とうっかり忘れていたことに気付きつつも、「いや、聞いていません」と言ってしまったり、ホントは兄貴が買い置きしているカップ麺を食べたのに、「そんなもん知らんし」としらばっくれたり―。
そんな小さな嘘もあれば、公文書の書き換え(2017年~森友学園事件)や、「ない」と言っていた自衛隊の活動報告書があった(イラク派遣の日報問題)など、社会を揺るがす大きな嘘もあります。
自分の保身やメンツ、組織の存在や利権、または大切な誰かなど、「何かを守るために」人は嘘をつくのかもしれません。
どんなにクリーンな世の中を目指そうとしても、必ず嘘は存在する。では、嘘とどう向き合うのか。
これらの映画を参考にしてみませんか?(注:映画の「ネタばれ」あります)
映画『リプリー』に学ぶ、「悲しい嘘」は自分を失う
-TheKobalCollection/WireImage.com
パトリシア・ハイスミスの原作を映画化し、1960年に大ヒットした映画『太陽がいっぱい』。これをリメイクしたのが、マット・デイモン主演の映画『リプリー』(1999年)です。
ヨーロッパで遊びまくっている金持ち息子ディッキー(ジュード・ロウ)を、アメリカに呼び戻すために雇われたトム・リプリー(マット・デイモン)。
ディッキーの暮らしぶりやガールフレンド・マージにあこがれを抱くトムは、やがてディッキーに惹かれていきます。
しかし、次第にトムのことがウザくなってきたディッキー。
ディッキーが自分を遠ざけようとする態度に傷ついたトムは、衝動的にディッキーを殺してしまいます。
そしてここから、なんとトムはディッキーを名乗り、ディッキーのような暮らしをはじめます。
(マット・デイモンがジュード・ロウのフリって……、そこのムリヤリ感はスルーしてください)
が、この嘘が共通の知人にバレないはずはありません。
追い詰められるトムは、さらに嘘を重ね―。
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トムの嘘はとにかく悲しい。どう考えてもトムはディッキーにはなれません。
どんなに憧れようとも、愛しようとも、自分がその人に成り代われるはずがない。
悲しい嘘をつくことで、トムは、自分自身とその未来をも失ってしまったのかもしれません。
ちなみに、『太陽がいっぱい』でトムを演じたのはご存知アラン・ドロン。
こちらのトムはもっと野心家で、ディッキーから恋人やお金を奪うために意図的に殺人を犯す人物として描かれています。
マット版の「悲しい嘘」に対し、こちらは「エグい嘘」と言ったところでしょうか。
映画『スモーク』に学ぶ、「暖かい嘘」は人をつなぐ
-Kobal/MIRAMAX/TheKobalCollection/WireImage.com
映画『スモーク』(1995年)に登場するのは、毎日同じ時刻に同じ場所の写真を撮っているタバコ屋のオーギーと彼の店の常連の小説家、そしてひょんなことから知り合いになる黒人青年―。
人との距離感ってむずかしいな、と思うことはありませんか?
初対面の人やそれほど親しくない人、自分とは共通点がない人との付き合いは正直避けたいもの。
でも、そうは言ってられない状況に陥ると、とっさに嘘をついてしまうことがあります。
「詳しい事情は知らないけど、何かあったんだろう―。だからこそ、自分も相手を傷つけたくない」
この映画の彼らの人生のなかにある「嘘」は、ときに人をつなぎ、ときに人を救う、「暖かい嘘」です。
映画『レディ・キラーズ』に学ぶ、「その場しのぎの嘘」は効力ナシ
-Touchstone/Photofest/ゲッティイメージズ
映画『レディ・キラーズ』(2004年)は、楽団を装った強盗団が、ある未亡人宅の地下室を借り、そこからトンネルを掘ってカジノ船の地下金庫を狙うというお話です。
リーダーの教授(トム・ハンクス)は紳士的にふるまいますが、ほかの面々はどう見ても音楽家には見えません。そもそも、そう見せようとする努力すら感じません。
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彼らの嘘は、「その場しのぎの嘘」です。
これってよくありますよね。私がたまについてしまう嘘もコレです。
本気で騙そうとか、陥れようとしているのではなく、「いまこの瞬間がなんとかなれば―」と思ってついてしまう嘘です。
この手の嘘はすぐバレます。
この映画でも案の定、未亡人にバレてしまい、その結果―。(結末は映画をご覧ください)
その場しのぎの嘘をつく姿は、はたから見るととっても滑稽なもの。
嘘はもっと気合を入れてつきたいものです。
映画『リトル・ロマンス』に学ぶ、「嘘」は信じる力には及ばない
映画『リトル・ロマンス』(1979年)は、ある老人(ローレンス・オリビエ)から「日没時に『ため息の橋』の下でキスをした恋人たちは、永遠の愛を手に入れられる」と教えられた若い男女が、その老人と一緒に、橋のあるベネチアに向かって駆け落ちするというストーリーです。
『ため息の橋』の話は、本当にイタリアにある伝説ですが、この老人、実は詐欺師でスリの常習犯。子供たちを誘拐されたと騒ぐ親や警察に追われながら、3人はベネチアを目指します。
老人は途中で自分が詐欺師であることを2人に告げますが、若い2人は伝説を信じ、嘆きの橋に向かいます。
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「えっ、マジ?じいさん詐欺師?じゃ、あの話もウソ?」「もう詐欺師の話なんて信じられん!やめよっ」とならないところがイイじゃありませんか。
悲しいことに実社会では、肩書や権威によって「信じる」「信じない」の判断が変わることも珍しくありません。この映画の純粋な2人は、詐欺師だろうが嘘かもしれない話だろうが、「信じる」と決めた自分を信じて行動します。
この老人の嘘は、「信じる力を生み出した嘘」です。
嘘であっても真実であっても、信じる力の前では同じなのかもしれません。
番外編 映画『ファーゴ』に学ぶ、「嘘」は何かを引き起こす
「これは実話である」(原文:THIS IS A TRUE STORY.)で始まる映画『ファーゴ』(1996年)。
嘘をついたことが思わぬ方向に転がっていき最悪の結果を招く話ですが、エンドロールで「実話ではない」ということが明かされています。
それを知ると、
「なーんだフィクションだったのか」と思うかもしれませんし、「クソッ、騙された!」となるかもしれません。
いずれも「『嘘』は何かを引き起こす―。その結果を受け止められる?」という、いじわるなメッセージなのでしょうね。