自己犠牲を否認するのは危険 こころの「ダボ穴」

モロモロの書庫
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木材をつないだり、組み立てたりするときに「ダボ」を使う方法があります。

わが家のDIYではもっぱらビスを使い、ビスの頭が見えていても気にしない仕上がりなんですが、「ダボ」を使うとつなぎ目が目立たず、とてもキレイな仕上がりになるんですよね。

 

で、本題はDIYのテクニックのことじゃなくて、人間関係もコレと同じだな、と思ったという話です。

 

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自己犠牲なんてしていない? 「ダボ穴」の存在に気づかない私たち

作家の森博嗣氏が『常識にとらわれない100の講義』の中で述べているのですが、しっかりとした関係を結ぶというのは2種類あって、一つは金属の溶接に似ているもので、もう一つがこの「ダボ継ぎ」。

森氏は「ダボ継ぎ」という言葉は使っていませんが、要は、お互いが自分に穴をあけて、そこにボルトを通して結びつくというものです。

 

つながるために「穴をあける」というのは、つまり自分のなにかを「犠牲にする」ということ。

それは時間だったり、お金だったり、別の人間関係だったり、あるいは自分の欲望や本心だったりするのかもしれません。

夫婦や恋人、友だち、一緒に働く人たちとつながるときに、少なからずなにかを犠牲にしているわけで、ほとんどそれは無意識に行われています。

 

関係がうまくいっているときは、「自分がなにかを犠牲にしている」なんて意識はまったくありませんが、関係がぎくしゃくし始め、壊れていくときにはじめて「自分のダボ穴」の存在に気づいて悩むのです。

人とつながるうえで、ある程度の犠牲を強いられるという意識がなく、つながるメリットだけに目を向けて、つながることを美化しすぎるから、人間関係で悩むのではないかー。

 

 

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「壊れる」ことを忘れないために

たしかに夫婦や友人関係など付き合いの長い関係は「ダボ継ぎ」のようなもので、普段はつなぎ目すら気にすることもなく、相手が自分と面一(つらいち)のように思ってしまいがちです。

が、ひょんなことで「自分はこんな我慢しているのに!」と、自分のダボ穴の存在に気づいて相手を恨めしく思ったりするのです。

 

 

でもそう思うのはごく当たり前のこと。

「私はなんのムリもしていません」「好き放題やってるだけですから」というほうがどうかと思いますし、たぶんそれ、思い込みです。

 

自己犠牲は美徳ではありませんが、やたら否定するものでもない。

ふつうの人間関係を築く上ではあって当然のものでしょう。

 

最近の私は、自分に穴を開けてまでつながろうという意識がないためか、妥協が目に見えるような「溶接」でつながったり、つなぎ場所やつなぐものがハッキリと分かるような「ビス止め」でつながったりしているように思います。

 

見た目は悪いかもしれませんが、人間関係は「面一」じゃないし、つなぎ目や段差がハッキリしているほうが「壊れる」ということを忘れずにいられると思うんですよね。

 

というわけで、つなぎ目やアラの目立つわが家のDIY作品です。どうぞ。

 

◆開けっ放し厳禁! 猫軍団の食糧庫

 

◆まだまた置ける! 照明付き本棚

 

◆下の段あいてます! 猫軍団の2段ベッド

 

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