【謝罪の極意】非を、そして屁を認めることは、不寛容な社会を生き抜いていくために必要な力である。

謝罪モロモロの書庫
スポンサーリンク

この話は実話である。

 

のちに、とある病院の看護師長となり、その華麗な謝りぶりから「あやまり侍」の異名を持つことになる女子看護学生Aが、「謝罪とは何か 」を考えるきっかけとなった話である。

 

ここには、現代社会に生きるものが忘れてはならない「謝罪の極意 」がある。

謝罪とは何かー。窮地に追い込まれたとき、人はどう謝ればいいのかー。謝ることは負けることなのかー。

 

ま、ライトに言うところの、「おすすめの謝り方」である。

 

スポンサーリンク

学生Aは何をしたのか

看護学校には「病院」だけでなく「保育所」での実習がある。
病気や障害のない「健康な子供の発達」を理解するためだ。

 

とはいっても、そこには病院実習につきものの、鬼のように恐ろしい、いや鬼よりも恐ろしい指導看護師はおらず、園児とともに遊び、園児とともにおやつを食べ、園児とともに昼寝をする、という夢のような実習であった。

 

学生Aは、わずか1週間の夢のような保育所実習を終えようとしていた。

 

お別れのあいさつをするために、体育座りをした園児たちの前に立った。
やさしい保育士さんと教育の行き届いたかわいらしい園児たちは、「Aせんせーありがとう! 立派な看護師さんになってください!」とご唱和した。

 

学生Aは感極まった。
まだ何者でもない未熟な看護学生を「先生」と呼び、慕い、一緒に過ごしてくれた園児たちを愛おしく思った。

 

「みなさん、ありがとうございます。これからも頑張ります」と涙をこらえ、声を振り絞ってこたえようとした。

 

ーが、学生Aが出したのは、振り絞った声でもなく、涙でもなかった。

 

、であった。

 

 

しまった…。学生Aは焦った。
しかし音は出ていないという自信はあった。

 

そばにいる園児たちに変化はない。
白目をむいて気を失いかけているものもいなければ、錯乱するものもいない。
さすがに健康である。丈夫である。教育が行き届いている。

 

ごまかせる。

 

学生Aの自信は確信に変わったー。
が、なかなかのにおいである。平成の怪物級のにおいである。

 

学生Aはなに食わぬ顔でその場を去ろうとした。 そのときー、

 

「なんかくさいっ!」

 

かなり離れたところにいた1人の保育士さんが声をあげた。

 

なんたる嗅覚!  犬か! ワンワン保母さんか!

学生Aの緊張は高まった。

 

「ん!におうね」と、 ほかの保育士さんたちもザワつきはじめた。
教育が行き届いているはずの園児たちも「くさい、くさーい」と騒ぎはじめた。

 

教室はパニックとなった。

 

さっきまであんなにやさしかった保育士さんたちは、疑わしき園児を取っ捕まえ、その肛門周囲を嗅ぎ始めた。

 

「違う…、タカシ君じゃない。ユウスケ君かも」
「いや、カオルちゃんよ! カオル、おいでっ!」

 

保育士さんたちがどういう基準で容疑者を特定しているのかはわからないが、数名がその場で肛門周囲の臭いを嗅がれ、重要参考人となったカオルちゃんはトイレに連行された。

 

 

「違った。なんもでとらんやった……」と、納得いかない表情の保育士さんとともに、カオルちゃんが笑顔で戻ってくる頃には、屁のにおいは消え、さわやかな5月の風が吹いていた。

 

学生Aはホッとした。そして、はげしく悔やんだ。

 

「なぜすぐに謝らなかったのだろう」

「なぜ『私がやりました。私が屁をこきました』と名乗り出なかったのだろう」

 

スポンサーリンク

オナラをしてしまったときに、何を謝るべきなのか。

この一件に関する学生Aの落ち度を分析してみよう。

 

まず、屁をこいたこと
屁をこくこと自体には問題はない。生理現象なのだから。
しかし、実習最終日ということで、明らかに気のゆるみがあり、気がゆるむだけならまだしも、肛門までゆるめてしまったことは責められてもいたしかたない。

 

さらに、園児たちの頭上という位置取りも問題である。
気のゆるみが肛門のゆるみを誘発する前に、すみやかに換気のいい場所に移動し、風向きを確認し、風下に園児がいないことを確認したうえの放屁なら何の問題もなかったのだ。

 

次に、屁が想像を絶するほどクサかったこと。
屁のにおいは、腸内に溜まった便や食べたものによって左右される。
学生とはいえこのくらいの知識はあったと思われるが、Aは自身の習慣的な便秘を放置していた。
屁がクサくならないように、というリスク管理が不充分であった。

 

 

また、無音であったことにも言及しておかなければならない。
学生Aが音を出して屁を放っていたならば、園児が疑われることはなかったはず。
しかし、音を「出す・出さない」を自在にコントロールするのは難しい。
この点で学生Aが責められるべきではないだろう。

 

スポンサーリンク

オナラをしてしまったときの謝り方

前章で述べたように「放屁事案」には、いくつかの過程がある

 

・屁をこいたこと
・場所が適切でなかったこと(人の頭上、風上、電車内、エレベーター内など)
・思いのほかクサかったこと

 

通常の事案における謝罪のポイントは、「できるだけ具体的にー」である。

スイマセン、申し訳ない、と連呼しても「この人、ホントは謝る気ないよね?」と思われてしまうのは、謝るべきポイントをわかっていないからである。
そういう謝罪は見ていてモヤモヤするばかりだ。

 

しかし、屁に関してはこの「具体的謝罪の原則」は適応できない

 

「あ、スイマセン。昨日家内が作った料理がニンニクが効きすぎておりましてな、もしかしたら今日の屁はクサいかな~、と危惧しておりましたが、まさかこれほどとは! 私もビックリでございます。急いでおりましたもんで、エレベーターに乗る前に済ませておくことができず、ホントに申しわけない。今度二度とこのようなことがないようー」

 

こんなふうに謝ったことろで、誰が許してくれるであろう。

 

下手をすると火に油を注ぐことになる。
わざわざ油を注がなくとも、そこはすでにガスが充満しているというのにー。

 

オナラをしてしまったときは、具体的過失を瞬時に分析、把握し、すべてを噛み含めた渾身の

 

「すいません」

 

を発するべきである。

 

スポンサーリンク

謝ることは負けなのか?

「謝ったほうが負け」「謝ると不利になる」「謝るのはカッコ悪いー」

現代社会にはそういった風潮がある。

 

しかし世の中は、誰か悪いのか、どちらに非があるのかわからないことも多い。
むしろそんなことばかりだ。

 

善悪がハッキリしない状況への耐性がなく、誰も悪くないことなのに大騒ぎして、誰かに非を認めさせ、謝らせようとする。

 

そんな不寛容な社会のなかで、謝ることに臆病になるのもわからないでもない。

 

しかし、学生Aは学んだ。

 

不用意に園児の頭上で屁をこいたことよりも、思いのほか強烈なにおいであったことよりも、もっと反省すべきは、正直に名乗り出なかったこと である。

 

すぐに「私がこきました。ごめんなさい!」と頭を下げておけば、園児が疑われることもなく、保育士さんの手を煩わせることもなかったのだ。

 

もしかすると、「さすが! A先生は正直ですね。みんなもA先生を見習って、自分が悪いと思ったらちゃんと『ごめんなさい』が言えるようになりましょうね! A先生に拍手!」と喝采を浴び、園児たちのヒーローになれたかもしれないのだ。

 

謝ることは負けではない。

 

非を、そして屁を認めることは、不寛容な社会を生き抜いていくために必要な力である。

タイトルとURLをコピーしました